かどやの主

 

 

【名前】角本稔(かどもとみのる) 

【生年月日】1972(昭和47)年8月16日

 

【愛車歴】~単車編~

 

★ゼファー400 ←2輪免許を取得して18歳で購入。半年後に盗難に遭い、族車仕様になって戻ってくる
★CBR250 ←ツレから安価で購入。
★GPZ900RNINJA ←トップガンのトムクルーズに憧れ、限定解除して中古で購入。1週間後に立ちゴケ。1ヶ月後に事故で廃車。
★ゼファー1100 ←新車でヨーロッパ仕様を購入。カスタムしまくり。借金多すぎで売却。
★SR400 ←このシングルは最高やった!
★スーパーカブ ←これもなかなか良かったな。
★ジャイロキャノピー ←今ココ。

 

【愛車歴】~四輪編~

 

★ランサーエボリューションⅢ ←初の新車!
★スカイラインGT-R R33 VspecⅡ ←借金返せなくて1年で売却
★ユーノスロードスター ←ドリフトオモロすぎた!
★S-MX ←ローダウンして遊んでた
★ワゴンRワイド ←19万で購入
★キューブキュービック(初代) ←配達も出来るし自家用としても最高。
★キューブキュービック(二代目) ←初代が壊れたのでまたキューブを中古で買った。
★ルノー カングー ←一升瓶6本入りの箱が24ケースも詰めてしまう最強car(今ココ)

 

【店主の人生】

 

~デビュー当時~

 

1972年8月16日にデビュー。デビューはお盆の真っ最中。小学校の時は友達を招待してお誕生日会みたいなものはやってもらったことがない。
みんな田舎に帰ってるから。

毎年、デビューした8月16日は京都・大文字の送り火の日。
お盆の間に帰ってきてくれたご先祖様の霊を見送るという行事だが、こんな偉大で大切な日にデビューさせてくれた両親に感謝でございます。

 

 

~幼稚園時代~

 

地元・千里丘にある三島幼稚園に通ってた。
お泊まり保育の時に出てきたピンク色のソーセージを食べる事が出来なくて、幼稚園の階段のところに隠す。が、見事に見つかって、すみれ組の先生に叱られました。

 

 

~小学校時代~

 
地元・茨木市立天王小学校。丸坊主の6年間。
別に学校の方針で丸坊主にしていた訳でもない。角本家の男はみんな丸坊主。(ワタクシは2枚刈り、弟は1枚刈。)

3年の時に、今まで経験したことのない大事件に襲われまして。
初恋なんっすよ、初恋!いやぁ、今から思うと照れますねー。
そんなある日、社会見学で男子と女子が背の順で2列に並び、それも手を繋いで歩かなくてはならない事に。
非常に偶然ながら、ワタクシの横には初恋の相手が。
クソガキにも関わらずドキドキし、手を繋ぐ事が出来ず、指切りげんまん状態で社会見学。嬉しいねんけど喋れない!
今でも鮮明に覚えてる。
この頃からワタクシにとってヘタレ人生の始まりであります。

何故か分からないが、4年生の時に書道教室に通う事が友達の間で流行った。その流行りに逆らうことなく書道教室に3年間通う。今から思うと、酒屋は筆ペンを持つ機会が非常に多いので、書道教室に通うのが流行ってくれて非常にラッキーでありました。

書道教室に通い出した頃、これも意味が分からないのだが学年で切手収集が流行る。流行に敏感なワタクシとしては素直に切手収集を始める。しかし数ヶ月で終了。今も家のどっかにあるんとちゃいますかね。

クラブ活動が4年生から始まった。
入ったクラブは、「水泳・縄跳びクラブ」。訳が分からない。
夏は水泳、冬は縄跳びといったところ。
このクラブに入って水泳の楽しさを知ってしまう!このころ25Mクロール31秒。

同じく4年生の時、親父に無理矢理スイミングスクールに入れられた。記憶にない幼少の頃、川崎病という原因不明の心臓の病気にかかったらしく、「強くなれ」ということで水泳を習わされたんだと思う。おかげさまで水泳が好きになった。4泳法泳げるように。

 

選手コースまで行ったんやけども練習がしんどくてしんどくて。
よく仮病を使ってサボってました。

 

小四の時、サッカー教室にも入る。左利きというだけで、準レギュラーになる。
たまたま左利きの人間がいなかったようだ。
センタリングをあげるのがめっちゃ苦手やったんやけども、さりげなく練習しとりました。
結局、大して上達することなく、サッカー人生1年で終了。


学年で持久走の大会があった。
ツレに「一緒に走ろうぜ」と言う。よくあるパターン。
しかし、どうもツレが遅すぎるのか自分に余裕があるのか、思いっきり走ってみたくなったのでダッシュ。すると、前には
2人の男子がいるだけ。3位に入ってしまった。
その頃ちょっぴり好きやった女子に「やるなぁ!」と言われ、照れまくり。バカなワタクシは、その時から早起きしてジョギ
ングを始める。しかし、すぐにあきらめる。なんとも単純で継続性の無いワタクシ。

 

6年生の時、連合水泳大会というものがあった。
いくつかの学校が集まって開催される水泳大会。
試合が終わり、入賞者の成績発表の時に何故かワタクシの名前が呼ばれた。学年では大して目立つ存在でもなく友達がたくさんいた訳でもないワタクシの名前が呼ばれた事が学年ではどうも不思議だったらしい。
50mクロールで3位だった。タイムは非常に平凡。

小学校6年間は、特に目立つ存在でもなく、程よく普通って感じでしたわ。
個性もなく、勉強が出来たわけでもないしスポーツ万能やった訳でもないし。

 

 

~中学校時代~

 


地元・茨木市立天王中学校。まだまだ丸坊主健在。

水泳部に入る。
小学校時代にタイムを争っていた友達と一緒に入部。入部した頃は友達に勝ってたのに、入部してあっという間にベストタイムで負けてしまった。とんでもなくくやしくて、とんでもなく練習したことを覚えてる。勝つことは出来なかったけど。
最後まで勝てず、メンタルが弱すぎる私の水泳人生もまもなく終わりを迎える。

 

中学の時の記憶は、ほとんど水泳だけ。
水泳だけと言いながらスイミングスクールは中2で辞めたし、とにかく最後まで中途半端。
彼女が出来た訳でもなく、勉強が出来たわけでもなく。
告白なんて一度もされなかった~(笑)自分から告白もしてへんし。

3年の時に、カドモト家の方針に逆らい、丸坊主をやめてスポーツ刈りにする。親父に黙って、自分の判断でやった。

 

その日の晩、親父に呼ばれる。
そしてひとこと。

「お父さんは悲しい。」

勝手に丸坊主をやめてスポーツ刈りにしたことが悲しかったのか。
その頃から反抗期突入。

 

高校進学の時期。五木の模擬テストを受けまくる。
志望校は、最後まで判定D。その次に行きたかった高校はC。

 

親父と進路についての話し合い。
公立高校での志望校はCとかDだったので、「私立に行きたい」と
懇願。最後には「行っても構わない」と言われるが条件があった。


「関関同立に現役で入りなさい」と。
関関同立がどんなものか分からないまま、高校に行かせてくれるということだけで「分かった」と了解してしまった。

 

卒業式の時、まわりの友達は学生服の第2ボタンを女の子から奪われておりました。
「俺の第2ボタンも誰かもらってくれるんかなー」と思ってたんですが、案の定綺麗にボタンは学生服についたまま(笑)
やっぱりヘタレ人生はこれかも続くんやなーと実感。

しかし!春から通う高校は共学ではなく、男子校(笑)
やっぱり俺はこんな運命なのか!!

 

 

~高校時代~

 


私立関西大倉高校入学。男子校。
体育館での入学式で、館内が学ランで真っ黒になっているのに驚く。
男子校だから当たり前なんやけど。

入学して、いきなりK先生から呼び出される。
その先生はハンドボール部の顧問で、入学式の時にワタクシがハンドボール部の勧誘名簿に自分の名前を書いたらしい。覚えてないけど。

それで、「おいおまえ、入部する気あるのか」と言われたが、入る気がなかったので恐る恐る断った。
でもその時の先生が、今では一番好きな先生だ。

スポーツは水泳しか出来なかったので、とりあえず入学したら「水泳部に入ろう」と思っていたのだが、学校にプールがない事が発覚。よって水泳部に入る事はいきなり終了を迎えた。
通う学校の事、ちゃんと調べとけよ、俺!

 

2年の時、今では腐れ縁のツレと出会う。
「俺ら、クラブもしてへんやろ。このままやったら全然面白くない高校人生やぞ。折角の高校生活楽しまないか?」との誘いに「分かった」と。

「俺たちの青春は、ここからスタートするんやー!」とのクサい言葉に乗ったって感じですな。

「ここに行こ」と誘われたのは「学園祭実行委員」というもの。
言われるままに入ったものの、どうも自分には合わない雰囲気だったが、ツレがいることの安心感から思いっきりやってみることにした。

 

その実行委員というのは、生徒会のひとつだったらしく、3年になって生徒会の副会長になってしまう。なんもやってませんけどね。

 

「楽しもう!」ということで、結構無茶な事もした。
毎年学校のグラウンドでやってた体育祭。
それを思い切って、今やガンバ大阪の本拠地である万博競技場を借りて大々的にさせて頂いた。もちろんそれぞれの種目の記録は電光掲示板に表示されるようにもした。
学園祭でも無茶をしたと思う。


芸能人を呼んだり、爆笑で有名な関大プロレスを呼んだり。
学内にミニFM局を作って、生徒会の同級生がDJとなって喋りまくった。


「予算があまりない!」という時は、学園祭パンフレット内に広告欄を作って、予備校に営業に行って広告を載せてもらった事もあった。でも、おもろかったな~。

生徒会の顧問の先生は、よく怒られていたと耳にした事がある。
それでもやりたいことをさせてくれた顧問の先生には本当に心から感謝。

進路を決めないといけない時期になったが、勉強なんぞしていなかったワタクシは大変なことになる。学園祭実行委員にワタクシを誘ったツレも同様。

 

その頃思い出したのが、中学時代にしていた親父との約束。「関関同立に現役で」。
模試の結果はさんざん。2浪しても3浪しても入れない。
親父とのケンカ勃発。

そんなこんながありながら、学内でツレと共に学校推薦を受ける事になった。腐れ縁のツレとは大学まで同じになる。

 

運が良かったんやろう。大学から合格通知が届き、晴れて大学生に。
ホンマに運が良すぎたー(笑)実力なんかいっこもあらへんのにー。

 

 

 

 

~大学時代~

 


京都・立命館大学入学。晴れて大学生。
ウキウキしながら阪急電車に乗って学校に通う。
京都で生まれて初めてセブンイレブンを見た時は感動したぜ!


大学時代の思い出はとんでもなく多すぎてここには書ききれない。

大学に行って得た大きな財産は友人。
今でも繋がっている友達がホントに多い。
会う事はさすがに少なくなったが、ツレの結婚式とかで会っても「まだ俺らは大学生やで!」ってな感じで全くみんな変わ
らない事が嬉しい。

あ、そうそう。
大学生になって、念願の彼女が出来ました(笑)遅っ(笑)

学生の間はずっとバイトしてた。小学4年生の時に習い始めたスイミングスクールでずっとバイト。子供達と一緒に泳いでた。
この時、子供が大好きになった。

飲みに行った事もほとんどなく、クラス合宿やゼミ合宿でちょびっとお酒を飲んだ程度。カラオケで歌を歌うなんぞ、ヘタレのワタクシにはありえない!だからいつも1次会で帰ってた。今から考えたらオモロない奴かも。

単車の免許をとり、400ccの単車を中古で買う。
しかし半年で盗まれてしまう。


単車欲しい病に毎日襲われ、バイトにあけくれる日々。
そんな時急に「次に買うバイクは、どうせなら大型バイクがいい」と訳の分からない事を考えてしまい、試験場に通う日々。
8回目にて限定解除の試験に合格し、バイトで貯めたお金を全てバイクに注ぎ込み、900ccのバイクを購入。乗りまくった。

しかし、購入後1週間で立ちゴケ。1ヶ月後にはクラッシュ!・・・廃車。

 

再びバイトに明け暮れ、クラッシュして10ヶ月後に1100ccの単車を買った。
大事に大事に乗ってたんやけど、ツレが中古で買った車を借りて山道を走っていた時に壁に激突!

「車両保険入ってる?」「いや、入ってない」「・・・。」

ということで知人の車の修理代を捻出するべく最愛の単車を売りに出す。
ここで単車人生終了。

 

2回生の時、見事にパチンコにハマる。
66単位を登録したにも関わらず、取得した単位は22単位。バカ丸出し。

3回生になり、そろそろ就職活動!という時に親父が逝く。

えらいこっちゃ!とばかりに店の手伝い。学校はほったらかし。
っていうか、酒の配達に明け暮れる毎日やったので学校にも行けない。
かどやに就職決定!

 

「大学辞めるわ」と言ったのに、母親が「それはあかん」と。

ゼミの先生に事情を話したら、「卒論だけはちゃんと出しなさい」と言われ、なんとか卒論が完成し、要卒単位をクリア!卒業!
くされ縁のツレと、最後のひと旗をあげるべく、卒業式の時に紋付きハカマで出席。爆笑の嵐。

 

 

ちょうどその頃、親父は店を酒屋からコンビニに改装中。(今のデイリーヤマザキ)
後戻りも出来ず、コンビニオープン!

 

 

~コンビニ時代~

 


多くのバイト君やパートさんに囲まれて、とても楽しい毎日。
年中無休ということで一泊旅行なんぞありえない状態だったけど。夜中1時に閉店してたコンビニやったんで、営業終了
してからバイト君達とよく遊びにいった。

単車人生が終わって、次は4輪に見事にハマッた。
よくあるパターン。

貯金でドーンと三菱のランサーエボリューションⅢを買う。
買った翌日には1000キロの慣らし運転終了。
めちゃめちゃ面白い車。
土曜の夜になると、先輩とブンブン走ってた。
本当はイカン事なんやけども、車のメーターでは足らない程の速度で高速をぶっ飛ばしてた。ゼロヨンもした。サーキットでも走った。今から考えると、若かった・・・。
車を速くしたいが為だけに、どんどんチューニングして貯金はどんどん減っていく・・。ガソリン代もシャレならん。

 

ランエボを新車で購入した1年後、車好きなメンバーにそそのかされて中古のスカイラインR33GT-R Vスペック2を450万で購入。それもフルローンで。

またアホみたいにチューニングに金を注ぎ、更に毎月10万円という車のローンを払っていると、見事に1年後に貯金が底をつき、完全アウトにてGT-Rを手放す。

ナンボ使ったやろか~。
毎月もらってた給料のほとんどを車のチューニング代につっこんでたんとちゃうやろか(笑)

まぁそれからというもの、事故に事故を繰り返す。ケガは無し。

そんな経験も、今ではエエ思い出。

 

話は変わって・・・。

ある時に日本酒に目覚める。
日本酒は美味しくないと思ってたし、飲んで美味しいと思った事もなかったんやけど、お客さんにもらった1本の純米吟
醸酒を口にした時に全身鳥肌がたった。「俺でも飲める日本酒があるんだ!」と。

そこからハマる。完全にハマった。酒造りもしてみたかったので、地元の蔵元さんにお願いして、酒造りの勉強もさせてもらった。
もっともっと勉強したかったから、利き酒師の資格も取ってみた。
(今はきき酒師の資格は返上したけどね~。結局あんまり意味なかった)
いろんな酒蔵さんに行ってみたくなったから、時間があれば酒蔵を探して造り手の人達と会って話をした。

そうすることを続けていくうちに、酒屋がしたくなってきた。

 

コンビニ本部との契約もあるので、ひとまず今ある環境でできる事をやってた。

店内で勝手に無人の試飲コーナーを作ったり、コンビニ本部に伝えず勝手に日本酒専用のオープンリーチインを入れたり。

「あれ?ここのコンビニの酒コーナー、なんか違うぞ!」って言ってもらえるのが嬉しかった。

 

 

日本酒の世界が面白くなって来た時に、ある1冊の本に出会う。
「町の酒屋」という本。
酒屋の素晴らしさ、日本酒の素晴らしさ。「人と人の繋がり」の大切さ。
「町の酒屋」という1冊の本との出会いから実際に様々な人と出会う事が出来、コンビニをやめて「酒屋をしよう」という決心をすることができた。しかし・・

 

「酒屋をしよう!」と決意した時はチェーンのコンビニ真っ最中。
契約期間もあるので、しばらくは酒屋に憧れながらのコンビニ経営。

 

そんな時ふと思った。

「店舗はコンビニやけど、唯一専門店を作れる空間がある。インターネットの世界だ!」と。

 

PCも持ってなかったので即購入。インターネット(その頃はダイヤルアップ)できる環境を作り、マニュアル本を買ってホームページ作成ソフトも買って、訳が分からないままホームページを作る。コンビニをしながらネット上で酒の専門店を作る!という意気込みでやってみたものの、全く世の中に相手にされることなく数年経過。結局ネット上での専門店は意味が無かったのか???

 

そこからリアルにコンビニを終了して酒屋に戻る事を更に考えるように。

 

しかし、従来の自分の性格である「ヘタレ」全開にて、7年契約で満了する予定だったコンビニ経営を1年間延長することになった。それは、「コンビニをやめて酒屋をするぞ!」と決めてたのに、いざ契約満了時期が近づいてくると「ホンマに大丈夫か?メシ食っていけるのか?」と不安に襲われてしまい「よし、1年延長してもう一度じっくり考えよう」と、いきなり【現実から逃げた】のでありました。

 

延長を決めた時に、我が尊敬する大阪・都島で酒屋をされている「杉本商店」の杉本さんに会いにいき、いろいろ相談した。

そしたら杉本さんがひと事、「俺なら素直にコンビニやめて酒屋するけどな」と。

 

そのシンプルなアドバイスに「俺は一体何に悩んでるんだ?何をビビってるんだ?俺はまだ独身じゃないか!それもまだ20代じゃないか!もし失敗してしまってもまだやり直す事は出来るじゃないか!酒の販売免許の自由化がほぼ決定してる今、コンビニを続けていても意味無いんじゃないか?先代がスタートした酒屋人生だ。せっかくならもう一度「酒屋というプライド」を表現できる場を作ってもいいんじゃないか?確かに売上は減る。減りまくる。メシを食える保証は全く無い。甘い考えかもしれんが、ちょっとした逃げ道探索で求人情報をチェックしてみたら、なんと!35歳まで求人があるじゃないか!まだ28歳!7年は求人があるはず!よし、やってみるか!」

 

そう、優柔不断な考えでフラフラドキドキしていた私の背中を押してくれたのは大阪都島「杉本商店」杉本さんだったのであります。

 

 

~酒屋~

 

 

試練スタート。

オープン当初は「開店おめでとう景気」で1ヶ月くらいは多くの人に来て頂いたけど、そこから見事などん底。

当時、ご縁を頂いていたのは日本酒蔵元さん4蔵と焼酎蔵元さん2蔵の合計6蔵。
お客さんにゆっくりしてもらえるスペースを作ったり試飲してもらいながら気に入ったお酒を選んでもらえるスタイルでやってたけど、とにかく毎日ヒマ過ぎて。もう仕事が無い。

 

酒屋に戻って初めての年末を迎える。

市場に駄菓子の仕入れに行った帰り、ある地元の酒屋さんの前を通る。
その酒屋さんの店内は人で溢れていて、駐車場もいっぱい。
おそらく依頼を受けたお歳暮等の進物の発送であろう荷物が山ほど積み上げられていて、それはそれは「12月は酒屋、忙しいんやで」という象徴みたいな光景を目の当たりにしてしまった。

「ウチもきっと大忙しだ!急いで店に戻らないと!」と思い、ダッシュで店に戻ると、店内は誰もいなくて、手伝ってくれていた親がレジの裏で普通に新聞を読んでいた。

 

その光景に愕然としてしまい、「俺は酒屋に戻って良かったんだろうか・・」とまた悩んでしまう。

 

それから結局全く忙しくなることなく、配達の注文も入ってないのに親に「配達に行ってくる」と言い、車に乗って近くのコンビニの駐車場で2時間寝て時間が過ぎるのをひたすら待ってたという、全く模範にならないダサすぎる過ごし方を毎日しておりました。

 

それから数年後に結婚することになったのだが、その頃は恥ずかしながら大卒の初任給に全く届かない給料(額面20万以下)でやりくりしてただけに、俺は結婚する資格はあるんだろうか・・大丈夫だろうか・・酒屋で良かったんだろうか・・と、とにかくずっと吐きそうな程に悩みまくっていた。

 

今に至るまで、東日本大震災・大阪北部地震・新型コロナ襲撃などなど、とにかく難儀な出来事が多く試練が多すぎましたが、とにかくですね、今はホントありがたいことにいろんなご縁を頂き、今もなんとか酒屋をさせてもらってます。

 

でもやっぱり、ひたすら悩んでました。
どうしたらエエんやろう?俺はこれでエエんやろか?
他の酒屋さんはどんなことやってるんだろう?
あの酒屋さん、どうやってあの銘柄の特約店になったんだろう?

もうね、他の酒屋さんの事が気になって気になって仕方がなくて、例えば私が気になってる蔵元さんがあって、ある酒屋さんが新しくその蔵の特約店になったっていうことを知ると、「うわー!マジかー!俺も早くアクション起こしといたらよかったー!」みたいな感じでショックを受けたりしてました。あの頃は一体何をしてたんでしょうね(笑)自営業なんだから、他の店の事を気にしたところでどうしようもないし、自分でやってるから自営業な訳で、あの頃はほんまにどうしようもなかったです。


でもやっぱり悩むんです。
そんな時に「田酒」の西田さんや「飛露喜」の廣木さんからハートに突き刺さる言葉をバシッと頂き、目覚めました。

それからもう他の酒屋さんの事とか気にならなくなったし、ひとまず「人の目を気にしながら商売したところで別に誰も助けてくれる訳でもないし、自分がやりたいスタイルでやってて、それで駄目なら「お前のやり方、アウトやで」とお客さんからジャッジされたことになるわけやから、よし、やりたいようにやるか!と思えるようになったのであります。


ま、今も悩んでますが、20年も酒屋をさせてもらえてるのは本当にありがたいです。

 

 

 

起きてる間ずっと喋っているスタッフ「すみこ」、お酒の梱包世界選手権があれば確実に優勝するであろうスタッフ「タマキ」、ウチの酒屋のビューティフルさの全てを担ってくれているスタッフ「まりこ」、裏方に徹してくれている母親に妻。毎日空を見上げてばかりで全く何もしていないワタクシ。

 

とにかくですね、今はご縁を頂いている蔵元さんのお酒をしっかり仕入れ、その酒を飲み手である皆さんにお届けする。そこに味付けとして「オモロい」というカテゴリーを【酒屋のフィルター】を通して伝えていくというスタイルでやっております。

 

ま、とりあえずこれからもボチボチやっていきますんで、気が向いたらお付き合いください。

どうぞよろしくお願い致します。